信州・高遠 花所 |
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■蓮華寺縁起 | ![]() |
■御本尊 | ![]() |
■絵島の生涯 | ![]() |
■女人成仏 永代供養 | ![]() |
■花所 | ![]() |
■七面堂 |
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絵島の生涯と蓮華寺
生涯
天和元年(1681年・徳川五代将軍綱吉のとき)、絵島は大和郡山に生まれ、元禄十六年(1703年・仝綱吉)二十三歳の時に縁あって紀州鶴姫に仕えたが、二十四歳の時鶴姫の死去により、甲州家宣の愛妾(月光院)おきよに仕えることとなる。家宣が綱吉の世嗣と決まって江戸城に入った時、絵島は月光院に随行して本丸に入りお使番になった。
月光院が
家継を生んだ年、家宣が六代将軍になると、絵島は四百石を賜って二十九歳で年寄となった。正徳二年(1712年)家宣死去、七代家継将軍となると絵島は六百石を加増されて大年寄となり、大奥で大きな力を持つようになった。時に三十二歳であった。大年寄という役は千人からいる女中を取り締まる年寄頭で大奥に数人いる。
呉服商後藤縫殿介、薪炭商都賀屋善六等々の利権亡者たちが争って絵島の歓心を得ようと、船遊び、芝居見物に三回ほど誘ってもてなした。女中数十人を引き連れての遊興であった。
大奥の女中の不評をかって失脚した老中もいたくらい、当時の大奥の力は強かった。
この大奥大改革の矢面に立たされ、その犠牲となったのが絵島であった。
これが世にいう、「絵島生島事件」である。
正徳四年(1714年)、絵島三十四歳の正月、月光院の代参として増上寺に将軍慰霊の法要の帰途、
山村座で芝居見物をし、たまたま門限に遅れたことが口実となり、処罰を受けたのであった。
死罪二人、遠島追放等事件に連座し罰せられた者、医師、身許引受人、芝居関係者、商人等千五百人からを数えられるのである。
- 浮き世には また帰らめや 武蔵野の 月の光の かげもはづかし 絵島
高遠に流された絵島の生活は自己に厳しいものであった。
蓮華寺に残る検死問答書に日常のことが細かく記されているが、その一例を食事の面にみると、
半月は精進日を設けて魚類を断つ生活をしていた。
四年後の三十八歳からは全く精進の毎日で、
寛保元年(1741年)四月十日、六十一歳で死去するまで二十四年間は
魚類を全く断つ生活をおくっていたのである。
絵島は江戸在城中より日蓮宗の信者であったので、
遺言によって蓮華寺二十四世本是院日成上人の導きを受け、蓮華寺後丘に埋葬された。
戒名を「信敬院妙立日如大姉」と授与され、妙経百部の回向を受け、
永代霊膳の丁重なる扱いをされたのである。
![]() 境内に建つ“今井邦子”の歌碑 |
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絵島を詠んだ和歌 | |
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例年、9月の祭りに合わせて営まれている。 この日は、市内観光協会関係者および、 生島が流された東京都三宅村の櫻田昭正村長はじめ関係者9名、 合わせて約30名が参列し、絵島の冥福を祈った。 また、境内の絵島の墓に献花した。 こちらは伊那市観光協会主催。 |
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囲み屋敷(伊那市立高遠町歴史博物館)
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蓮華寺と絵島囲み屋敷(高遠町歴史博物館)の位置関係 |
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