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信州・高遠 花所
蓮華寺
東龍華院妙法山

蓮華寺縁起

 縁起

   当寺は、「勅額菊之紋拝領 東龍華院」と称され、京都妙顕寺二祖大覚大僧正妙実上人を開基、身延山久遠寺五世鏡円阿闍梨日台上人を開山とした日蓮宗の寺院である。
 嘉歴元年(1326)妙実上人高遠に弘通、高遠城下に寺院を建立、妙法山蓮華寺と号す。妙実上人晩年の草創寺院である。
 延文5年(1360)身延山第五世日台上人を開山に迎え、高遠北原の地に移し、寺号を蓮華寺から長遠寺と改める。高遠身延門流の初祖となり、伊那谷地域各地(松倉、栗田、四日市場、中村、弥勒、小原、勢理町、久保川、新子、手良、福島、駒ケ根、木曽等)に法華堂(弘通所)を開設する。
 慶長6年(1601)保科正光公高遠城下に建立する。寛永6年(1629)当山十七世日遵上人、保科正之公・お静の方の帰依を受け、日蓮聖人像を奉安する。さらに、寺領百石を寄進され城下勢理町へ三宝を移す。東西一町余り、南北二町の広大な境内を有した。寛永13年(1636)保科正之山形へ。日遵上人後事を当山十八世本理院日観上人に託し山形に浄光寺を開創する。
 慶安4年(1726)当山十九世日隆上人、鳥居公の帰依を受け本堂・庫裡を寄進され、現在の地に移転する。江戸幕府にて不受不施・本末の論争が起こり、「往昔之芳志故」に京都妙顕寺客末となり、名称を蓮華寺に戻す。
 享保11年(1726)多宝塔「日蓮聖人御真骨」を奉安する。四代将軍徳川家綱公「厳有院殿贈正一位相国公」、お静の方「浄光院殿法紹日恵大師」、鳥居忠春正室「恵光院殿徹照妙賢日通大姉」、絵島殿「信敬院妙立日如大姉」等永代供養の鄭重なる扱いを受ける。本光院宮、梶井宮家等の天皇家祈願所となって末寺も六ヶ寺を数え、「勅額菊之紋拝領 東龍華院 中本山」と呼称される寺格を備う。
 本堂は間口十一間・奥行九間、庫裡は間口七間・奥行十四間。本堂裏丘には、七面堂(市宝)、妙見堂、大奥大年寄絵島の墓、その脇には絵島女人成仏像が建立されている。



 お静の方(浄光院)と蓮華寺

 寛永十二年(1635)九月十七日、お静の方は五十二歳でこの世を去る。
当山蓮華寺に葬られ、法号は「浄光院殿法紹日恵大姉」。
 お静の方は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の側室。信州高遠藩主、出羽山形藩主、陸奥会津藩主保科正之の生母。父は北條家家臣、神尾栄嘉(かんお さかよし)。名は「静」(志津)。慶長年間に将軍秀忠の乳母大姥局(おおうばのつぼね)に仕えた際秀忠に見初められ、その後懐妊し、見性院(武田信玄の次女・穴山梅雪の正室)の元に預けられ、慶長十六年(1611)に幸松(後の保科正之)を産む。
 幸松は元和三年(1617)、見性院の縁で旧武田家家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育され、「保科正之」と改める。母お静の方もそれに伴って高遠城に移り住む。
 お静の方は、日蓮宗の信仰者であり法華経の信仰篤く、寛永五年(1627)「当寺之由来」日遵記之(当山過去帳)「保科肥後殿ヨリ・・・賜う。門前市ヲ作シ」とあり、高遠城下に蓮華寺を建立。寛永六年(1627)、日蓮聖人像(本堂祖師像)を奉安。「境内東西一町余り、南北二町余りという。」(木の下陰)と広大なものであった。
 正之は寛永十三年(1636)には出羽山形藩二十万石を拝領。蓮華寺(旧 長遠寺)十七世日遵上人を迎え本眷寺第四世となし、寺号を母の法号にちなみ浄光寺とした。また、墓所は日蓮宗総本山身延山久遠寺に改葬され、生前公私共に教えを受けたお万の方(徳川家康側室)墓所の隣に安置された。
寛永二十年(1643)、陸奥会津藩二十三万石と大身の大名に引き立てられた。
 正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通した。生母お静の方の薫陶があったに違いない。
 当山蓮華寺に於いて、永代供養の丁重な扱いをされている。



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